TOOTH FAIRYスタッフブログ

前回までカレニーの政府側と武装勢力側の関係を記した。

州首相と武装勢力の実質No.2の第一幹事長が隣席し、我々への歓迎会や政府ゲストハウスの提供、政府側にある国内避難民の現場視察への第一幹事長の同行など、信頼醸成は表面的には一歩一歩前進していくように見えるが、60年以上にわたる血みどろの戦いで沁み込んだお互いの不信感がそんな簡単に払拭されるわけがない。

我々一行に同行してくれた通訳の某君は、今回、我々と同行したことで秘密警察からの嫌がらせを受けた。政府側からは武装勢力のスパイと思われ、武装勢力側からは政府側のスパイと思われ、ヤンゴンで何をしているか色々な質問を受けたという。

某君は、軍政時代にミャンマーを脱出。日本で20年間も困難な生活を続け、今回の民主化を機に帰国して我々の仕事を手伝ってくれている。私は在日のミャンマー人に、ミャンマーの逆戻りはないと断言の上「祖国のために働く機会がきた。早く帰国しては」と勧めているが、彼らが今まだ半信半疑でいる理由が今回の某君の体験で理解することができた。

テイン・セイン大統領の民主化への努力は、国際社会で急速に信頼を得ているが、実際の市民の生活の中にはまだ大きなギャップのあることも確かである。某君に嫌な思いをさせて申し訳ないと同時に、真の民主化の実現には、民主化を要求し続けた我々日本人にもその責任の一端があることを痛感させられた。

 

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テイン・セイン大統領の民主化への努力に敬意を表し
我々もその責任の一端を担う努力を続けたいと思う
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12月5日午前6時40分出発。往復8時間のシャドー村国内避難民村を訪ねた。途中、ドゥ・テヨ(Daw Tayo)という国内避難民の村にも立ち寄った。キャンプが次第に村として定着していったようだ。

武装警察官に守られてのジャングルの山道は相変わらず厳しい。反政府勢力の最高幹部の第一幹事長は、わざわざタイ国境近くから私たちとの会談のために政府側の地域に出てきてくれた。停戦中とはいえ、勇気のある彼の行動には敬服せざるを得ない。

 

山道.jpg
厳しい山岳地帯を走り・・・

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シャドー村へ



シャドー村にある国内避難民村は、従来からあるシャドー村(人口7000名)に隣接し、約1000人269世帯が生活しており、「シャドー村の外」とか「シャドー村隣」という名称で呼ばれている。かつて戦闘のあった地域で生活していた村人は、心情的に反政府側に思いを寄せているため、政府軍の情報や反政府側の連絡要員の役目を果たしていると判断され、7日間以内の強制移住だといわれてここに連れてこられたという。

シャドー村には二ヶ所の国内避難民村の子供たちが学ぶ小学校があり、6人の先生のもとで懸命に勉強している様子を見学した。7月になって武装グループのリエゾンオフィス(連絡所)も開設され、10人の事務員が避難民の相談や生活指導にあたっているが、従来のシャドー村の人々との交流は一切ないという。あとから住み始めた避難民に対して差別の感情があるようであった。

 

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小学校を訪問



我々の訪問のために一頭の豚が屠られ、昼食に提供された。一行を率いる第一幹事長も、政府支配地域にあるこの村を訪問するのは初めてで、リエゾンオフィス(連絡所)の事務員となにやら話し合っていた。

我々を警護する武装警察の隊長が、反政府武装勢力の第一幹事長と一緒に写真を撮りたいと申し出、ツーショットに応じるという不思議な光景もあった。

第一幹事長に質問したところ「私はよくテレビに出演するので、政府側支配地の人々も良く知っており、ちょっとした有名人だ」と、恥ずかしそうに答えてくれた。第一幹事長主催の夕食会にはカレニーの州首相も出席。資金難の中、精一杯の歓迎宴でカレニーの各部族の歌や踊りの披露があり歓待してくれた。

世界中には色々な奇習があるが、首長族の女性の踊りには心底驚いた。5~6才から首に真鍮の環を1つずつはめていくそうで、写真の老婆はどのようにして寝るのか、首は折れないのか、余計な心配をしてしまった。アフリカ・エチオピアのムルシ族は、下唇に土製の皿を入れて一番大きな皿を入れている女性が美人であるとの評価であったが、この首長族も環が1つでも多い方が美人だそうだ。

 

首長族の方と.jpg
独特の風習をもつ首長族の方々



舞台終了時、武装勢力第一幹事長と州首相を舞台の上で握手させた。第一幹事長は少し躊躇されたが、停戦から真の和平への願いを込め、少し強引に連れ出した。

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11月4日午前6時20分発、バルーチャン発電所の視察に出かけた。この発電所は、現地ではLawpita hydro power plant(ローピタ水力発電所)と呼ばれている。

 

第1発電所.jpg
第1発電所



この発電所は日本にとっても縁の深い発電所である。昭和29年12月、タイ国境近くの山奥にあるこの発電所は、戦後日本が初めて手掛けた海外工事であった。最盛期には鹿島建設198名、現地就労者3400人に達し、延べ従事者は日本人15万8000人、ビルマ側253万人に及び、5年以上の歳月をかけて完成した。工事は難行を極め、工事中不幸にして亡くなった日本人犠牲者も3名あったと聞く。

近年になって、ミャンマー側の再三再四の修理要請の強い希望にも、日本は西側の経済制裁の一員として心ならずも支援ができない状態にあった。ミャンマーの民主化の進展の中で、最近ようやくODAでの修繕が可能になってきたのである。

この発電所は、カレニー武装勢力にとって恰好の攻撃目標であったため、今日まで関係者以外の通行が禁止されていた地域で、今回はじめて、我々一行に視察の許可が出た。勿論、武装勢力側も足を踏み入れるのは初めてである。

ロイコウから政府側武装警察官に守られ、車輌4台に分乗して山道を行くこと約4時間。バルーチャン発電所に到着した。敷地内には何ヵ所か土嚢(どのう)を積んだ守備隊の塹壕があり、発電所をとりまく山岳地帯には地雷が付設されていると聞いた。

 

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土嚢を積んだ守備隊の塹壕



しかし、第一発電所、第二発電所とも今も立派に稼働しており、配電盤その他の施設もよく磨かれていて、とても建設後50年間も経過した施設には見えない。駐車場には、今では珍しい1956年製のトヨタのランドクルーザーも実働していた。所長の説明によると「日本からの部品の供給がなく補修に苦労を重ねたが、なんとか自前の技術で補ってきた。ODAの再開も決定しており、一日も早く日本人技術者を迎えいれたい」と、思いのたけを話してくれた。現在、日本が建設した1号2号の発電所からの電力は、ミャンマー電力の25%を賄っている。

 

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第2ダム内の日本製タービン
磨かれて、立派に現役!

配電盤.jpg
配電盤



ヤンゴンで繰り返される市民の騒ぎも、停電による不満が引き金になることがあると聞く。電力供給はミャンマーの喫緊の課題で、私たちは中国が建設中の第3号発電所建設の現場を視察することができた。日本が建設した第2号は168メガワットだが、中国製は26メガワット2機の小規模なもの。2013年12月完成目標に約1000人の労働者が働き、山間(やまあい)には飯場が整然と並んでいた。基礎的な土木工事が進行中で、中国人は発電機関係者のみ、少数いると、所長は力説した。

 

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中国が建設中の第3ダム

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建設中の第3ダムを見学

第3ダム建設中施設内にある中国人関係者が住むという施設.jpg
建設中施設内にある中国人関係者が住むという建物



停戦中とはいえ、往復路とも厳しい山岳地帯では、5~6人の政府軍兵士がパトロールしているところに何回か出会った。

http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3871

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カヤー州はタイと国境を接し、ミャンマーの観光地インレー湖に接する小さな州で、その約半分は少数民族武装勢力カレニー民族進歩党が支配する地域である。12月3日午前9時30分にヤンゴンの宿舎を出発し、シャン州のHe-Ho空港に12時30分に到着。そこから車で約6時間。カレニーの首都Loi Kaw(ロイコウ)の政府ゲストハウスに到着したのは、日が落ちて暗くなった午後6時30分であった。

 

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ゲストハウス



少数民族武装勢力地域の訪問については、事前にミャンマー政府に旅程を通告することになっている。今回も提出したところ、宿舎の政府ゲストハウスとは何かとの問い合わせがあり、当方担当者を慌てさせた。それもそのはず、私は武装勢力カレニー民族進歩党の最高幹部の一人である幹事長との会談に訪れたにもかかわらず、州政府のゲストハウスを宿舎にしたからである。

はからずもミャンマー政府がこれらの現場の状況を把握していない実態の一部が明らかになってしまった。2012年6月の停戦以来、カレニー民族進歩党の最高幹部である副議長(議長は空席、副議長が事実上のナンバー1)を除いて、ミャンマー政府側の地域に比較的自由に往来しており、政府ゲストハウスも彼らの依頼に州政府が了解したのであった。

ちなみに、ナンバー1は今回の私たちの訪問に際しても暗殺を恐れて顔を見せなかった。まだまだ緊張関係は続いている。

ゲストハウスでの夕食を終えた後、「秘密警察もいるから、大切な話は場所を変えて我々の事務所で行いましょう」と、政府ゲストハウスから地続きで6~70メートル先にある武装勢力側のリエゾンオフィス(連絡所)での会談となった。このリエゾンオフィスは少数民族武装勢力、一グループにつき3ヶ所、ヨーロッパの資金で建設された簡素な平屋の施設で、資金の乏しい武装勢力側が、政府との交渉のため2~3日もかけて政府側地域に出てきた時の宿舎兼会議室に使用されていた。私を出迎えてくれたカレニー民族進歩党の最高幹部の一人も、タイ国境より2日間をかけてLoi Kaw(ロイコウ)に出向き、ここを宿舎としていた。

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11月26日早朝、ミャンマーの少数民族武装勢力である新モン州党訪問を終えて帰国。中3日おいて、少数民族武装勢力(カレン民族同盟)が活動するカレン州(ミャンマーではカイン州という)とカレニー民族進歩党が活動するカヤー州を訪問した。

カレン州パアンまでは、ミャンマーの首都ヤンゴンを朝6時に車で出発し、比較的良好な道路で約6時間程であった。この州では、政府と少数民族武装勢力との戦闘が60年以上にわたり続いていたが、近年、停戦が実施され、表面的には平穏である。しかし、いまだに政府側支配地域と少数民族武装勢力が支配する地域とに分かれている。

 

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ヤンゴンからパアンへの道は舗装されていた



7月にネピドーでテイン・セイン大統領と会談した折、日本財団が保健省と組んで辺境地域に配布しているミャンマー製伝統医薬品の薬箱が好評なので、カレン州全村に配布してほしいとの要請を受けた。その要望に応え、薬箱の贈呈式がカレン州のU Zaw Min(ウー・ゾウ・ミン)州首相も参加して行われた。

 

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左側がウー・ゾウ・ミン州首相



また、辺境地域でのモバイルクリニックも、ミャンマー医師会、保健省、日本財団の三者合同プロジェクトとして、当面、カレン州2台、モン州2台で巡回緊急医療サービスを実験的に実施することになった。

 

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モバイルクリニック事務所前でスタッフたちと



長い戦闘が続いたため、少数民族武装勢力支配地域の地図、特に道路事情については、未舗装は当然としても、詳細は不明で、現時点では雨期に活動できるか否か不明である。しかし、モバイルクリニックがスタートしたことは地域住民にとっては何よりの朗報で、道路事情の確認作業をしながら経験を積み、一人でも多くの病める人々にアクセスできるようにとの関係者の熱意は高く、このモチベーションを維持できるよう協力するのが日本財団の役割であると心を新たにしたところである。

そして、曲がりなりにも短期間に巡回緊急医療サービスがスタートしたことは、日本の名前をさらに高めたものと思う。ミャンマーに多くの支援団体が入り何を支援すべきか模索中の中で、日本財団は昨年までに37事業、約2,000万ドルの支援を実施してきた。加えて2012年から始まった23事業、約1,200万ドルの人道的支援活動は、手前味噌ではあるが、海外からの支援活動としては突出しており、日本財団としてよりも日本の活動としてミャンマーの国民の信頼を広く受けていることは喜ばしいことである。

財団の担当役職員の熱意も強く、歓迎に慢心することなくあくまでも謙虚に、実施状況の評価と反省を加えながら更に充実した事業に発展させていきたいものである。

なお、ミャンマー伝統医薬品による薬箱は、病気になっても病院にアクセスすることが不可能な地域を中心に、既に7,000の村に配布。約140万人の人々がその恩恵を受けており、2014年3月までに28,000ヶ所の僻地の村に配布する計画である。

 

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伝統医薬品薬箱を置いている施設



薬箱の原価は、咳止め、解熱剤各二種類、強心薬、目薬、下痢止め、鎮痛剤、体温計、ガーゼ、包帯、消毒用アルコール、絆創膏、薬剤使用説明書を含め、1箱1,000円。これだけあれば、今まで病気になっても放置されていた子供たちにとっての初期治療としては大いに有効で、西洋医薬品に比べ10分の1から20分の1の価格なので、村人も有料で購入することが可能で、継続性のあるシステムとして多くの発展途上国より注目をされているところだ。

パアンの大規模工業団地予定地に隣接する薬草栽培モデル農地にはU Zaw Min州首相自らが案内して下さり、日本の薬草の権威、お茶の水女子大学の佐竹元吉博士もその可能性を評価。州首相は私が出発した後、土・日曜にもかかわらず会議を招集し、日本財団の薬草栽培事業の展開に積極的に協力する姿勢を示されたと、担当者の間遠登志郎から報告を受けた。

 

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薬草栽培予定地訪問、州政府も同行



貧農に付加価値の高い農作物を指導する日が間近に迫ってきたことは喜ばしいことで、ミャンマーでの消費のみならず、薬草不足に悩む日本への輸出の実現も視野に入れ、夢は大きく膨らんでいる。

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11月25日午前5時起床。天候は曇り。6時10分、5台の車両と30人の武装兵士に守られて臨時仮宿泊所の寺を出発。7時15分、途中の露店で簡単な朝食をとる。

相変わらずの悪路。途中、何回も谷川に入り、ある場所では20分以上も川の中央を登り、また下る。突然、川岸よりジャングルに入ることもしばしば。政府軍に軍用犬がいるかどうかは知らないが、水の中で臭いを消し、政府軍兵士に通った道を発見させにくくするためらしい。

タイ国境近くで、少数民族より絶大な信頼を得ている井本勝幸氏の農場に立ち寄った。車では登れないため、途中から息を切らせながら30分ほど坂を登ると、井本氏が指さす方向には急斜面に植えられている麻の畑が望見できた。

「よくもこんな所を開拓しましたね」と訊ねると、「貧農に、何とかして少しでも高く売れる農作物の耕作を教えたいと思い、麻、三椏楮(みつまたこうぞ)や綿の栽培を始めたところで、成功すれば、その成果をもとに村人に指導していきたい」と夢を語ってくれた。

 

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平和なミャンマーを夢見て、井本氏と語る



平地が少ないモン州とはいえ、約30度ほどもあると思われる傾斜地は重労働であろう。しかし「モン族は勤勉で足腰は強く、貯金に熱心で、何の心配もありません」と、井本氏はこともなげに一笑に伏した。

 

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村人は皆働き者



彼の「帰りは近道をしましょう」との誘いに従ったところ、下る登山道はやっと一人が通れる程度の粘土質の急坂で、岩には苔がへばりついて滑りやすく、写真のように杖をたよりに下らざるを得なかった。

 

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杖を頼りに、登り

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下り

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川を渡る



靴をはいたままでの谷川渡りで、靴は水と泥で使用不能。ほうほうの体でタイ側に戻り、水で体を洗い、同行の吉田鈴香の藁草履をもらって帰国のために空港に向かう。5時に起床しバンコクの空港到着は21時50分。その間の車での移動時間は、何と! 12時間30分。長い一日であった。

買い物の時間もなく、写真のように、昔の刑務所出所者のような素足に草履、その上、夏ズボンに冬ジャケットの情けない姿で成田に到着した。

同行の諸君も半そで半ズボンの夏姿で寒い成田空港に降り立った。

 

草履で電車の仲.JPG
刑務所から出所?
―侘しいミャンマーからの帰国姿―



31年間、382回の私の海外活動の中には、アフリカ・コンゴ民主共和国の密林にピグミー族を訪問したり、ブラジル・アマゾン河奥地でレパード(ヒョウの一種)に襲われそうになったりと、幾多の困難な体験があるが、今回のミャンマー少数民族武装勢力の新モン州党訪問こそ最悪の旅行であった。

三日間で40時間の泥土と岩場の悪路との格闘は、道のイメージには程遠く、よくぞ事故もなく腸捻転も起さずに帰還出来たものだ。

過ぎ去ってみれば、記憶の美化作用で既に楽しい思い出の旅になっている。「それならもう一度如何」と友人は悪態をつくが、私は男の約束として、彼ら11の少数民族武装勢力全ての地域の訪問を約束している。

今回はほんの肝試しであった。
 

(おわり)
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11月24日、午前5時起床、7時、新モン州党最高責任者の議長と会談した内容は前回アップした。

その後、8時頃より国内避難民施設を視察。通常、テレビで放映される難民キャンプにはテントが並んでいるが、この地域は避難してきて既に5~6年が経過しており、粗末とはいえ木造作りの一軒家が多く、中には小規模だが耕作地を保有する農家もあって、貧しいながらも何とか生活しているという状況であった。

 

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セパタクローで遊ぶ避難施設の子供達



ただ、病院は木造の平屋で、20床程の木製ベッドにはマットも敷かれておらず荒れはてた状態。入院患者は一人もいなかった。医師もおらず、一人いた看護師の女性は「医薬品もほとんどなく、医師・看護師は勿論のこと、最低限の医療施設の必要性が喫緊の課題です」と訴えた。

 

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荒れ果てた病院

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病院内部を視察



9時、昨日難行を極めたジャングルの道なき道を戻ることになった。

本当にあの道を戻れるのか?
不安に思うだけでなく、思い出すだけでもぞっとする風景が脳裏をかすめる。しかし、昨日ぬれ鼠になった軍服に威厳を正す兵士たちの立居振舞いには気合が入っており、5台の車両の荷台に各々5人の武装兵士が立ち、勢いよく出発となった。

出発して9時間、走行は往路より復路のほうがさらに難渋を極め、豪雨の中、岩場や深く削られた泥土の轍(わだち)に車両はたびたび立ち往生。そのたびに荷台の兵士は激しい雨に打たれて急速に体温を奪われる厳しい条件の中で、車両から飛び降り、持参した鍬でほんのわずか、車両の幅だけ固い土を掘り起こし、車両の前進に努力する。

 

鍬で進路を確保.JPG
鍬で進路を確保



竹林のトンネルのような間道は、豪雨を集めて川の急流のようになってきた。出発して9時間、午後6時には日没となり、激しい豪雨に視界も不良。この道を何十回、何百回と往復しているベテラン運転手のこれ以上進むのは危険との助言で、行軍は停止と決心せざるを得なくなった。

幸い、谷川を横断した直後だったので、兵士が手分けして宿舎の確保に走った。私が車中泊を覚悟して眠りに入っていたところ、同行の森祐次より窓をたたかれ、宿舎の寺が借りられ夕食の用意も出来たので移動するようにとの指示。真っ暗闇の中、懐中電灯に照らされた足元の草地は、靴の中までどっぷり水につかった。

ロウソクの灯がかすかに揺れる寺の中では、すでに兵士を含めた同行者が板の間に車座になって食事を始めるところだった。寺といっても屋根があるだけの広間で、壁面は奥の仏像が安置されているところを含め、片側だけである。

大盛りの飯に野菜炒め、豚肉の煮込み、それに魚の缶詰。豪雨の中、兵士たちが横断した谷川に近い茶屋まで戻り入手してきたらしい。与えられた食事をロウソクの灯の下で兵士たちと共にもくもくと口に運ぶ。賓客?の私たち一行に対する彼らの気の遣いようは涙ぐましいものがあった。

 

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ローソクをたよりに兵士と共に夕食



食事が終わると兵士は濡れた軍服を脱いで私服となり、中にはミャンマーの民族服であるスカートのような「ロンジー」を巻いている者もいる。食器は手際よく片づけられ、湿った衣服のままでの雑魚寝となった。客人の私たちにはコンクリートの上にゴザが敷かれ、蚊帳二張りが支給されたが、兵士たちは蚊帳なしの雑魚寝である。主賓の私には写真のようなピンクの蚊帳付きの台座のある和尚用のベッドが用意された。和尚は所用で留守であったが、私は無断で借用すれば罰が当たるのではないかと考え、ベッドを同行の某氏に譲ってゴザの上で寝ることにした。蚊帳は3人は入れそうな広さなので、私と森祐次、吉田鈴香女史の三人で川の字になって寝ようと冗談半分に提案した。しかし「鈴香御前」の愛称のある吉田鈴香より鄭重に断られてしまったので、仕方なく森祐次と二人で寝ることになってしまった。

 

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和尚の蚊帳付き寝台



私は長年の癖でうつ伏せで寝るのが習慣である。しかし枕はなく、どう頭を動かしてもおでこか頬(ほお)のどちらかにゴザの網目を感じてしまい、寝付くのにしばしの時間が必要だった。

夜中、森祐次の懐中電灯を借りて50メートルほど離れた野外の扉のない便所に行く。雨は上がっていたが虫の音もなく、暗闇の中で谷川の流れる音だけが聞こえてきた。兵士たちは、エジプトのミイラのように足元まで布をしっかり巻いて一様に上を向いて熟睡しており、あちこちで音程の異なるいびきが協奏している。

一番鳥が鳴いたので森祐次に声をかけたら「午前3時です。起床は5時です」と注意され、兵士の寝姿をまねて上向きで寝ることを試してみたが、あちこちから聞こえるいびきの協奏に耳を取られているうちに起床の時間を迎えた。

慌しく蚊帳をたたみ、持ち物の整理が終わったところでふと兵士たちに目を向けると、奇妙なことに、壁を背に両膝を抱えるようにしてしばらく動こうとしなかったが、やがてボスの命令で一斉に濡れた軍服に着替えて出発の準備に取りかかった。

和尚愛用の特別ベッドを使用した某氏に
「夕べはよく寝られましたか?」と声をかけると、
「さすが笹川さん。何かを感知してこのベッドを私に譲ってくれたのでしょう」とニヤリと笑った。
「そんなことありませんよ」と弁解すると、某氏笑いながら
「昨夜は大変でした。夜中に急所に痛みが走ったので懐中電灯を持って外に出て照らしてみたら、急所の先の方に黒いホクロのようなものがあって、摘んでみると虫だったのです。えらい目に合いました」
「それは大変でした。多分、3~4日後に急所は3~4倍に腫れ上がりますよ」
「脅かさないで下さいよ。顔や手足は虫よけスプレーを使ったんですが、急所にも必要なんでしょうか?」と、真面目な某氏の一言で大笑いとなった。
(つづく)

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11月23日は悪路のため予定通りの行程が消化できず、新モン州党学校に一泊した。昨夜は午前0時の就寝にもかかわらず朝5時起床。同行諸氏や兵士の激務を考えると、彼等の睡眠不足は明らかで、本当に申し訳ない気持ちで一杯であった。

 

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豪雨の中でも前へ前へ

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やむなく途中の学校の施設に宿泊



昨日は午後から豪雨で、トヨタのピックアップ車の後部は兵士の懸命な水出し作業もむなしく、厳重にシートを被せてあったスーツケースも荷台に溜まった水が入り、森祐次のスーツケースは開けてビックリ! 衣類は全て水浸しになってしまった。この後クアラルンプールに行く予定の彼に衣類の替えはなく、着の身着のままの状態で唖然と立ち尽くす。アフリカ、コソボ、その他と、歴戦の勇士も型無しの状態になってしまった。幸い私のスーツケースは半分助かり、日頃お世話になっている森祐次に、謹んでパンツ二枚を進呈した。

 

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森祐次のスーツケースの中身はあえなく全滅



午前7時、朝食の準備が整ったところに、5時に起床し2時間かけて新モン州党の最高責任者である議長が幹部を従えてジャンパー姿で到着した。簡単な朝食後、場所を移動して会談に入った。

テーブルをはさんで初対面の議長と正対した。私の持論である多民族国家ミャンマーの真の民主化には、少数民族武装勢力を含む諸民族の団結なくしてあり得ないこと、多民族国家であることを誇りに思って停戦、和解への道を進むよう説得した。

議長は賛意を表明し、12月20日、モン州への日本財団の緊急支援物資の引渡し式には、新モン州党の最高責任者として停戦ラインまで出て来て出席すること、来年1月16~19日、日本財団で行われる第2回ミャンマー少数民族武装勢力による会議への出席も了承の上、我々の遠路の訪問に謝意が表明された。

双方合意したところで散会し、午前8時には国内避難民施設や病院視察のため、会談場を後にした。
(つづく)

http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3850

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タイよりミャンマー領に入り、国境近くの国内避難民キャンプと学校を視察。その後、モン族自由軍連隊基地を訪問した。

 

モン族の学校訪問

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23学校訪問 授業風景.JPG

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粗末な校舎でも、学ぶ子どもたちの表情は明るい



私たち一行警護のため、30名の兵士が各車輛の荷台に5名ずつ分乗。カラシニコフ機関銃やランチャー400を装備しており、銃弾を襷掛けしている兵士や手榴弾を胸に装着している兵士もいて緊迫した雰囲気の中での出発となった。

 

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護衛のモン族自由軍の兵士



乾期に入ったとはいえ二日連続の雨で道路状況が悪いとの情報は受けていたが、アフリカ、インドその他の発展途上国で数々の悪路を走りぬいた経験を持つ私でも、かつてないほどの泥土と岩石の山道には心底驚かされた。

ここではトヨタのピックアップ以外通用しないとの説明に納得せざるを得ないほど車高は高く、チェーンを巻いた車輛は、雨のため中央に深く亀裂の入ったところを避けて走るが、それでも轍(わだち。車が通って道に残した輪の跡)は少なくとも30~40cmはあり、ある時は崖すれすれに、ある時は山側の岩に接触するように、運転手は懸命にハンドルを切る。日本の山道のように、例えば日光の「いろは坂」のような綴れ織りではなく、ほとんど直登に近く、下りも同様である。難所の通過では兵士が山を削り、轍に岩石を投げ入れて協力する。一か所の難所通過に30分近く要することもあった。

 

轍を走る.JPG
深い轍を走る

泥土に埋まって.JPG
また埋まった・・・

車を押して.JPG
全員で心と力を合わせて!

車が通るのがやっと.JPG
これが車道?



登りの難所ではチェーンと岩石との摩擦で煙や火花が散る中、車輛の後部に立っている兵士たちは懸命に腰を上下させて前輪がわずかでも浮くよう協力して岩場を乗り切るような場面を何十回となく経験した。日本では車輛を軽くするため運転手以外は降りて後方から押すのが普通であるが、兵士たちの動きは長い体験からの知恵なのかも知れない。

車道はジャングルといってもほとんど密生する竹林で、竹は倒れて道に覆い被さっており、いわば竹林のトンネルを行くがごときで、後部に立っている兵士は一瞬の油断も出来ない行軍であった。険しい山を降りると山間の谷川は清水で、車両は何十回と谷川を渡り、急な登り下りを何十回繰り返したことであろうか。途中、雨が降り出し、やがて豪雨となり、悪路は勢いよく泥水が流れる川と化した。

 

23日 竹林のトンネル.JPG
竹林のトンネルを喘ぎながら進む



 

車、川を渡る.JPG
川も渡る



兵士は濡れ鼠となって懸命に道を開き、漆黒の闇の中に車のライトが光り、車輪は空転してエンジン音だけがむなしく闇をわたる。悪戦苦闘の結果目的地には到着できず、途中、教育大臣がおられる学校施設での宿泊となった。到着は22時30分であった。

現地の地図で確認すると、タイのサンカブリを出発して11時間のドライブ距離はたったの70kmであった。如何に難行苦行の行軍であったか、読者にも若干はご理解いただけたと思う。

木造の強制収容所のような部屋で、日本財団の森祐次と二人、顔に虫よけスプレーをかけて持参の寝袋に納まったのは午前0時過ぎであった。
(つづく)

http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3849

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