2013年1月の記事一覧


12月5日午前6時40分出発。往復8時間のシャドー村国内避難民村を訪ねた。途中、ドゥ・テヨ(Daw Tayo)という国内避難民の村にも立ち寄った。キャンプが次第に村として定着していったようだ。

武装警察官に守られてのジャングルの山道は相変わらず厳しい。反政府勢力の最高幹部の第一幹事長は、わざわざタイ国境近くから私たちとの会談のために政府側の地域に出てきてくれた。停戦中とはいえ、勇気のある彼の行動には敬服せざるを得ない。

 

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厳しい山岳地帯を走り・・・

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シャドー村へ



シャドー村にある国内避難民村は、従来からあるシャドー村(人口7000名)に隣接し、約1000人269世帯が生活しており、「シャドー村の外」とか「シャドー村隣」という名称で呼ばれている。かつて戦闘のあった地域で生活していた村人は、心情的に反政府側に思いを寄せているため、政府軍の情報や反政府側の連絡要員の役目を果たしていると判断され、7日間以内の強制移住だといわれてここに連れてこられたという。

シャドー村には二ヶ所の国内避難民村の子供たちが学ぶ小学校があり、6人の先生のもとで懸命に勉強している様子を見学した。7月になって武装グループのリエゾンオフィス(連絡所)も開設され、10人の事務員が避難民の相談や生活指導にあたっているが、従来のシャドー村の人々との交流は一切ないという。あとから住み始めた避難民に対して差別の感情があるようであった。

 

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小学校を訪問



我々の訪問のために一頭の豚が屠られ、昼食に提供された。一行を率いる第一幹事長も、政府支配地域にあるこの村を訪問するのは初めてで、リエゾンオフィス(連絡所)の事務員となにやら話し合っていた。

我々を警護する武装警察の隊長が、反政府武装勢力の第一幹事長と一緒に写真を撮りたいと申し出、ツーショットに応じるという不思議な光景もあった。

第一幹事長に質問したところ「私はよくテレビに出演するので、政府側支配地の人々も良く知っており、ちょっとした有名人だ」と、恥ずかしそうに答えてくれた。第一幹事長主催の夕食会にはカレニーの州首相も出席。資金難の中、精一杯の歓迎宴でカレニーの各部族の歌や踊りの披露があり歓待してくれた。

世界中には色々な奇習があるが、首長族の女性の踊りには心底驚いた。5~6才から首に真鍮の環を1つずつはめていくそうで、写真の老婆はどのようにして寝るのか、首は折れないのか、余計な心配をしてしまった。アフリカ・エチオピアのムルシ族は、下唇に土製の皿を入れて一番大きな皿を入れている女性が美人であるとの評価であったが、この首長族も環が1つでも多い方が美人だそうだ。

 

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独特の風習をもつ首長族の方々



舞台終了時、武装勢力第一幹事長と州首相を舞台の上で握手させた。第一幹事長は少し躊躇されたが、停戦から真の和平への願いを込め、少し強引に連れ出した。

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11月4日午前6時20分発、バルーチャン発電所の視察に出かけた。この発電所は、現地ではLawpita hydro power plant(ローピタ水力発電所)と呼ばれている。

 

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第1発電所



この発電所は日本にとっても縁の深い発電所である。昭和29年12月、タイ国境近くの山奥にあるこの発電所は、戦後日本が初めて手掛けた海外工事であった。最盛期には鹿島建設198名、現地就労者3400人に達し、延べ従事者は日本人15万8000人、ビルマ側253万人に及び、5年以上の歳月をかけて完成した。工事は難行を極め、工事中不幸にして亡くなった日本人犠牲者も3名あったと聞く。

近年になって、ミャンマー側の再三再四の修理要請の強い希望にも、日本は西側の経済制裁の一員として心ならずも支援ができない状態にあった。ミャンマーの民主化の進展の中で、最近ようやくODAでの修繕が可能になってきたのである。

この発電所は、カレニー武装勢力にとって恰好の攻撃目標であったため、今日まで関係者以外の通行が禁止されていた地域で、今回はじめて、我々一行に視察の許可が出た。勿論、武装勢力側も足を踏み入れるのは初めてである。

ロイコウから政府側武装警察官に守られ、車輌4台に分乗して山道を行くこと約4時間。バルーチャン発電所に到着した。敷地内には何ヵ所か土嚢(どのう)を積んだ守備隊の塹壕があり、発電所をとりまく山岳地帯には地雷が付設されていると聞いた。

 

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土嚢を積んだ守備隊の塹壕



しかし、第一発電所、第二発電所とも今も立派に稼働しており、配電盤その他の施設もよく磨かれていて、とても建設後50年間も経過した施設には見えない。駐車場には、今では珍しい1956年製のトヨタのランドクルーザーも実働していた。所長の説明によると「日本からの部品の供給がなく補修に苦労を重ねたが、なんとか自前の技術で補ってきた。ODAの再開も決定しており、一日も早く日本人技術者を迎えいれたい」と、思いのたけを話してくれた。現在、日本が建設した1号2号の発電所からの電力は、ミャンマー電力の25%を賄っている。

 

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第2ダム内の日本製タービン
磨かれて、立派に現役!

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配電盤



ヤンゴンで繰り返される市民の騒ぎも、停電による不満が引き金になることがあると聞く。電力供給はミャンマーの喫緊の課題で、私たちは中国が建設中の第3号発電所建設の現場を視察することができた。日本が建設した第2号は168メガワットだが、中国製は26メガワット2機の小規模なもの。2013年12月完成目標に約1000人の労働者が働き、山間(やまあい)には飯場が整然と並んでいた。基礎的な土木工事が進行中で、中国人は発電機関係者のみ、少数いると、所長は力説した。

 

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中国が建設中の第3ダム

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建設中の第3ダムを見学

第3ダム建設中施設内にある中国人関係者が住むという施設.jpg
建設中施設内にある中国人関係者が住むという建物



停戦中とはいえ、往復路とも厳しい山岳地帯では、5~6人の政府軍兵士がパトロールしているところに何回か出会った。

http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3871

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カヤー州はタイと国境を接し、ミャンマーの観光地インレー湖に接する小さな州で、その約半分は少数民族武装勢力カレニー民族進歩党が支配する地域である。12月3日午前9時30分にヤンゴンの宿舎を出発し、シャン州のHe-Ho空港に12時30分に到着。そこから車で約6時間。カレニーの首都Loi Kaw(ロイコウ)の政府ゲストハウスに到着したのは、日が落ちて暗くなった午後6時30分であった。

 

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ゲストハウス



少数民族武装勢力地域の訪問については、事前にミャンマー政府に旅程を通告することになっている。今回も提出したところ、宿舎の政府ゲストハウスとは何かとの問い合わせがあり、当方担当者を慌てさせた。それもそのはず、私は武装勢力カレニー民族進歩党の最高幹部の一人である幹事長との会談に訪れたにもかかわらず、州政府のゲストハウスを宿舎にしたからである。

はからずもミャンマー政府がこれらの現場の状況を把握していない実態の一部が明らかになってしまった。2012年6月の停戦以来、カレニー民族進歩党の最高幹部である副議長(議長は空席、副議長が事実上のナンバー1)を除いて、ミャンマー政府側の地域に比較的自由に往来しており、政府ゲストハウスも彼らの依頼に州政府が了解したのであった。

ちなみに、ナンバー1は今回の私たちの訪問に際しても暗殺を恐れて顔を見せなかった。まだまだ緊張関係は続いている。

ゲストハウスでの夕食を終えた後、「秘密警察もいるから、大切な話は場所を変えて我々の事務所で行いましょう」と、政府ゲストハウスから地続きで6~70メートル先にある武装勢力側のリエゾンオフィス(連絡所)での会談となった。このリエゾンオフィスは少数民族武装勢力、一グループにつき3ヶ所、ヨーロッパの資金で建設された簡素な平屋の施設で、資金の乏しい武装勢力側が、政府との交渉のため2~3日もかけて政府側地域に出てきた時の宿舎兼会議室に使用されていた。私を出迎えてくれたカレニー民族進歩党の最高幹部の一人も、タイ国境より2日間をかけてLoi Kaw(ロイコウ)に出向き、ここを宿舎としていた。

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11月26日早朝、ミャンマーの少数民族武装勢力である新モン州党訪問を終えて帰国。中3日おいて、少数民族武装勢力(カレン民族同盟)が活動するカレン州(ミャンマーではカイン州という)とカレニー民族進歩党が活動するカヤー州を訪問した。

カレン州パアンまでは、ミャンマーの首都ヤンゴンを朝6時に車で出発し、比較的良好な道路で約6時間程であった。この州では、政府と少数民族武装勢力との戦闘が60年以上にわたり続いていたが、近年、停戦が実施され、表面的には平穏である。しかし、いまだに政府側支配地域と少数民族武装勢力が支配する地域とに分かれている。

 

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ヤンゴンからパアンへの道は舗装されていた



7月にネピドーでテイン・セイン大統領と会談した折、日本財団が保健省と組んで辺境地域に配布しているミャンマー製伝統医薬品の薬箱が好評なので、カレン州全村に配布してほしいとの要請を受けた。その要望に応え、薬箱の贈呈式がカレン州のU Zaw Min(ウー・ゾウ・ミン)州首相も参加して行われた。

 

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左側がウー・ゾウ・ミン州首相



また、辺境地域でのモバイルクリニックも、ミャンマー医師会、保健省、日本財団の三者合同プロジェクトとして、当面、カレン州2台、モン州2台で巡回緊急医療サービスを実験的に実施することになった。

 

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モバイルクリニック事務所前でスタッフたちと



長い戦闘が続いたため、少数民族武装勢力支配地域の地図、特に道路事情については、未舗装は当然としても、詳細は不明で、現時点では雨期に活動できるか否か不明である。しかし、モバイルクリニックがスタートしたことは地域住民にとっては何よりの朗報で、道路事情の確認作業をしながら経験を積み、一人でも多くの病める人々にアクセスできるようにとの関係者の熱意は高く、このモチベーションを維持できるよう協力するのが日本財団の役割であると心を新たにしたところである。

そして、曲がりなりにも短期間に巡回緊急医療サービスがスタートしたことは、日本の名前をさらに高めたものと思う。ミャンマーに多くの支援団体が入り何を支援すべきか模索中の中で、日本財団は昨年までに37事業、約2,000万ドルの支援を実施してきた。加えて2012年から始まった23事業、約1,200万ドルの人道的支援活動は、手前味噌ではあるが、海外からの支援活動としては突出しており、日本財団としてよりも日本の活動としてミャンマーの国民の信頼を広く受けていることは喜ばしいことである。

財団の担当役職員の熱意も強く、歓迎に慢心することなくあくまでも謙虚に、実施状況の評価と反省を加えながら更に充実した事業に発展させていきたいものである。

なお、ミャンマー伝統医薬品による薬箱は、病気になっても病院にアクセスすることが不可能な地域を中心に、既に7,000の村に配布。約140万人の人々がその恩恵を受けており、2014年3月までに28,000ヶ所の僻地の村に配布する計画である。

 

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伝統医薬品薬箱を置いている施設



薬箱の原価は、咳止め、解熱剤各二種類、強心薬、目薬、下痢止め、鎮痛剤、体温計、ガーゼ、包帯、消毒用アルコール、絆創膏、薬剤使用説明書を含め、1箱1,000円。これだけあれば、今まで病気になっても放置されていた子供たちにとっての初期治療としては大いに有効で、西洋医薬品に比べ10分の1から20分の1の価格なので、村人も有料で購入することが可能で、継続性のあるシステムとして多くの発展途上国より注目をされているところだ。

パアンの大規模工業団地予定地に隣接する薬草栽培モデル農地にはU Zaw Min州首相自らが案内して下さり、日本の薬草の権威、お茶の水女子大学の佐竹元吉博士もその可能性を評価。州首相は私が出発した後、土・日曜にもかかわらず会議を招集し、日本財団の薬草栽培事業の展開に積極的に協力する姿勢を示されたと、担当者の間遠登志郎から報告を受けた。

 

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薬草栽培予定地訪問、州政府も同行



貧農に付加価値の高い農作物を指導する日が間近に迫ってきたことは喜ばしいことで、ミャンマーでの消費のみならず、薬草不足に悩む日本への輸出の実現も視野に入れ、夢は大きく膨らんでいる。

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11月25日午前5時起床。天候は曇り。6時10分、5台の車両と30人の武装兵士に守られて臨時仮宿泊所の寺を出発。7時15分、途中の露店で簡単な朝食をとる。

相変わらずの悪路。途中、何回も谷川に入り、ある場所では20分以上も川の中央を登り、また下る。突然、川岸よりジャングルに入ることもしばしば。政府軍に軍用犬がいるかどうかは知らないが、水の中で臭いを消し、政府軍兵士に通った道を発見させにくくするためらしい。

タイ国境近くで、少数民族より絶大な信頼を得ている井本勝幸氏の農場に立ち寄った。車では登れないため、途中から息を切らせながら30分ほど坂を登ると、井本氏が指さす方向には急斜面に植えられている麻の畑が望見できた。

「よくもこんな所を開拓しましたね」と訊ねると、「貧農に、何とかして少しでも高く売れる農作物の耕作を教えたいと思い、麻、三椏楮(みつまたこうぞ)や綿の栽培を始めたところで、成功すれば、その成果をもとに村人に指導していきたい」と夢を語ってくれた。

 

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平和なミャンマーを夢見て、井本氏と語る



平地が少ないモン州とはいえ、約30度ほどもあると思われる傾斜地は重労働であろう。しかし「モン族は勤勉で足腰は強く、貯金に熱心で、何の心配もありません」と、井本氏はこともなげに一笑に伏した。

 

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村人は皆働き者



彼の「帰りは近道をしましょう」との誘いに従ったところ、下る登山道はやっと一人が通れる程度の粘土質の急坂で、岩には苔がへばりついて滑りやすく、写真のように杖をたよりに下らざるを得なかった。

 

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杖を頼りに、登り

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下り

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川を渡る



靴をはいたままでの谷川渡りで、靴は水と泥で使用不能。ほうほうの体でタイ側に戻り、水で体を洗い、同行の吉田鈴香の藁草履をもらって帰国のために空港に向かう。5時に起床しバンコクの空港到着は21時50分。その間の車での移動時間は、何と! 12時間30分。長い一日であった。

買い物の時間もなく、写真のように、昔の刑務所出所者のような素足に草履、その上、夏ズボンに冬ジャケットの情けない姿で成田に到着した。

同行の諸君も半そで半ズボンの夏姿で寒い成田空港に降り立った。

 

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刑務所から出所?
―侘しいミャンマーからの帰国姿―



31年間、382回の私の海外活動の中には、アフリカ・コンゴ民主共和国の密林にピグミー族を訪問したり、ブラジル・アマゾン河奥地でレパード(ヒョウの一種)に襲われそうになったりと、幾多の困難な体験があるが、今回のミャンマー少数民族武装勢力の新モン州党訪問こそ最悪の旅行であった。

三日間で40時間の泥土と岩場の悪路との格闘は、道のイメージには程遠く、よくぞ事故もなく腸捻転も起さずに帰還出来たものだ。

過ぎ去ってみれば、記憶の美化作用で既に楽しい思い出の旅になっている。「それならもう一度如何」と友人は悪態をつくが、私は男の約束として、彼ら11の少数民族武装勢力全ての地域の訪問を約束している。

今回はほんの肝試しであった。
 

(おわり)
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