2012年12月の記事一覧

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11月24日、午前5時起床、7時、新モン州党最高責任者の議長と会談した内容は前回アップした。

その後、8時頃より国内避難民施設を視察。通常、テレビで放映される難民キャンプにはテントが並んでいるが、この地域は避難してきて既に5~6年が経過しており、粗末とはいえ木造作りの一軒家が多く、中には小規模だが耕作地を保有する農家もあって、貧しいながらも何とか生活しているという状況であった。

 

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セパタクローで遊ぶ避難施設の子供達



ただ、病院は木造の平屋で、20床程の木製ベッドにはマットも敷かれておらず荒れはてた状態。入院患者は一人もいなかった。医師もおらず、一人いた看護師の女性は「医薬品もほとんどなく、医師・看護師は勿論のこと、最低限の医療施設の必要性が喫緊の課題です」と訴えた。

 

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荒れ果てた病院

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病院内部を視察



9時、昨日難行を極めたジャングルの道なき道を戻ることになった。

本当にあの道を戻れるのか?
不安に思うだけでなく、思い出すだけでもぞっとする風景が脳裏をかすめる。しかし、昨日ぬれ鼠になった軍服に威厳を正す兵士たちの立居振舞いには気合が入っており、5台の車両の荷台に各々5人の武装兵士が立ち、勢いよく出発となった。

出発して9時間、走行は往路より復路のほうがさらに難渋を極め、豪雨の中、岩場や深く削られた泥土の轍(わだち)に車両はたびたび立ち往生。そのたびに荷台の兵士は激しい雨に打たれて急速に体温を奪われる厳しい条件の中で、車両から飛び降り、持参した鍬でほんのわずか、車両の幅だけ固い土を掘り起こし、車両の前進に努力する。

 

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鍬で進路を確保



竹林のトンネルのような間道は、豪雨を集めて川の急流のようになってきた。出発して9時間、午後6時には日没となり、激しい豪雨に視界も不良。この道を何十回、何百回と往復しているベテラン運転手のこれ以上進むのは危険との助言で、行軍は停止と決心せざるを得なくなった。

幸い、谷川を横断した直後だったので、兵士が手分けして宿舎の確保に走った。私が車中泊を覚悟して眠りに入っていたところ、同行の森祐次より窓をたたかれ、宿舎の寺が借りられ夕食の用意も出来たので移動するようにとの指示。真っ暗闇の中、懐中電灯に照らされた足元の草地は、靴の中までどっぷり水につかった。

ロウソクの灯がかすかに揺れる寺の中では、すでに兵士を含めた同行者が板の間に車座になって食事を始めるところだった。寺といっても屋根があるだけの広間で、壁面は奥の仏像が安置されているところを含め、片側だけである。

大盛りの飯に野菜炒め、豚肉の煮込み、それに魚の缶詰。豪雨の中、兵士たちが横断した谷川に近い茶屋まで戻り入手してきたらしい。与えられた食事をロウソクの灯の下で兵士たちと共にもくもくと口に運ぶ。賓客?の私たち一行に対する彼らの気の遣いようは涙ぐましいものがあった。

 

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ローソクをたよりに兵士と共に夕食



食事が終わると兵士は濡れた軍服を脱いで私服となり、中にはミャンマーの民族服であるスカートのような「ロンジー」を巻いている者もいる。食器は手際よく片づけられ、湿った衣服のままでの雑魚寝となった。客人の私たちにはコンクリートの上にゴザが敷かれ、蚊帳二張りが支給されたが、兵士たちは蚊帳なしの雑魚寝である。主賓の私には写真のようなピンクの蚊帳付きの台座のある和尚用のベッドが用意された。和尚は所用で留守であったが、私は無断で借用すれば罰が当たるのではないかと考え、ベッドを同行の某氏に譲ってゴザの上で寝ることにした。蚊帳は3人は入れそうな広さなので、私と森祐次、吉田鈴香女史の三人で川の字になって寝ようと冗談半分に提案した。しかし「鈴香御前」の愛称のある吉田鈴香より鄭重に断られてしまったので、仕方なく森祐次と二人で寝ることになってしまった。

 

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和尚の蚊帳付き寝台



私は長年の癖でうつ伏せで寝るのが習慣である。しかし枕はなく、どう頭を動かしてもおでこか頬(ほお)のどちらかにゴザの網目を感じてしまい、寝付くのにしばしの時間が必要だった。

夜中、森祐次の懐中電灯を借りて50メートルほど離れた野外の扉のない便所に行く。雨は上がっていたが虫の音もなく、暗闇の中で谷川の流れる音だけが聞こえてきた。兵士たちは、エジプトのミイラのように足元まで布をしっかり巻いて一様に上を向いて熟睡しており、あちこちで音程の異なるいびきが協奏している。

一番鳥が鳴いたので森祐次に声をかけたら「午前3時です。起床は5時です」と注意され、兵士の寝姿をまねて上向きで寝ることを試してみたが、あちこちから聞こえるいびきの協奏に耳を取られているうちに起床の時間を迎えた。

慌しく蚊帳をたたみ、持ち物の整理が終わったところでふと兵士たちに目を向けると、奇妙なことに、壁を背に両膝を抱えるようにしてしばらく動こうとしなかったが、やがてボスの命令で一斉に濡れた軍服に着替えて出発の準備に取りかかった。

和尚愛用の特別ベッドを使用した某氏に
「夕べはよく寝られましたか?」と声をかけると、
「さすが笹川さん。何かを感知してこのベッドを私に譲ってくれたのでしょう」とニヤリと笑った。
「そんなことありませんよ」と弁解すると、某氏笑いながら
「昨夜は大変でした。夜中に急所に痛みが走ったので懐中電灯を持って外に出て照らしてみたら、急所の先の方に黒いホクロのようなものがあって、摘んでみると虫だったのです。えらい目に合いました」
「それは大変でした。多分、3~4日後に急所は3~4倍に腫れ上がりますよ」
「脅かさないで下さいよ。顔や手足は虫よけスプレーを使ったんですが、急所にも必要なんでしょうか?」と、真面目な某氏の一言で大笑いとなった。
(つづく)

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11月23日は悪路のため予定通りの行程が消化できず、新モン州党学校に一泊した。昨夜は午前0時の就寝にもかかわらず朝5時起床。同行諸氏や兵士の激務を考えると、彼等の睡眠不足は明らかで、本当に申し訳ない気持ちで一杯であった。

 

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豪雨の中でも前へ前へ

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やむなく途中の学校の施設に宿泊



昨日は午後から豪雨で、トヨタのピックアップ車の後部は兵士の懸命な水出し作業もむなしく、厳重にシートを被せてあったスーツケースも荷台に溜まった水が入り、森祐次のスーツケースは開けてビックリ! 衣類は全て水浸しになってしまった。この後クアラルンプールに行く予定の彼に衣類の替えはなく、着の身着のままの状態で唖然と立ち尽くす。アフリカ、コソボ、その他と、歴戦の勇士も型無しの状態になってしまった。幸い私のスーツケースは半分助かり、日頃お世話になっている森祐次に、謹んでパンツ二枚を進呈した。

 

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森祐次のスーツケースの中身はあえなく全滅



午前7時、朝食の準備が整ったところに、5時に起床し2時間かけて新モン州党の最高責任者である議長が幹部を従えてジャンパー姿で到着した。簡単な朝食後、場所を移動して会談に入った。

テーブルをはさんで初対面の議長と正対した。私の持論である多民族国家ミャンマーの真の民主化には、少数民族武装勢力を含む諸民族の団結なくしてあり得ないこと、多民族国家であることを誇りに思って停戦、和解への道を進むよう説得した。

議長は賛意を表明し、12月20日、モン州への日本財団の緊急支援物資の引渡し式には、新モン州党の最高責任者として停戦ラインまで出て来て出席すること、来年1月16~19日、日本財団で行われる第2回ミャンマー少数民族武装勢力による会議への出席も了承の上、我々の遠路の訪問に謝意が表明された。

双方合意したところで散会し、午前8時には国内避難民施設や病院視察のため、会談場を後にした。
(つづく)

http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3850

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タイよりミャンマー領に入り、国境近くの国内避難民キャンプと学校を視察。その後、モン族自由軍連隊基地を訪問した。

 

モン族の学校訪問

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粗末な校舎でも、学ぶ子どもたちの表情は明るい



私たち一行警護のため、30名の兵士が各車輛の荷台に5名ずつ分乗。カラシニコフ機関銃やランチャー400を装備しており、銃弾を襷掛けしている兵士や手榴弾を胸に装着している兵士もいて緊迫した雰囲気の中での出発となった。

 

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護衛のモン族自由軍の兵士



乾期に入ったとはいえ二日連続の雨で道路状況が悪いとの情報は受けていたが、アフリカ、インドその他の発展途上国で数々の悪路を走りぬいた経験を持つ私でも、かつてないほどの泥土と岩石の山道には心底驚かされた。

ここではトヨタのピックアップ以外通用しないとの説明に納得せざるを得ないほど車高は高く、チェーンを巻いた車輛は、雨のため中央に深く亀裂の入ったところを避けて走るが、それでも轍(わだち。車が通って道に残した輪の跡)は少なくとも30~40cmはあり、ある時は崖すれすれに、ある時は山側の岩に接触するように、運転手は懸命にハンドルを切る。日本の山道のように、例えば日光の「いろは坂」のような綴れ織りではなく、ほとんど直登に近く、下りも同様である。難所の通過では兵士が山を削り、轍に岩石を投げ入れて協力する。一か所の難所通過に30分近く要することもあった。

 

轍を走る.JPG
深い轍を走る

泥土に埋まって.JPG
また埋まった・・・

車を押して.JPG
全員で心と力を合わせて!

車が通るのがやっと.JPG
これが車道?



登りの難所ではチェーンと岩石との摩擦で煙や火花が散る中、車輛の後部に立っている兵士たちは懸命に腰を上下させて前輪がわずかでも浮くよう協力して岩場を乗り切るような場面を何十回となく経験した。日本では車輛を軽くするため運転手以外は降りて後方から押すのが普通であるが、兵士たちの動きは長い体験からの知恵なのかも知れない。

車道はジャングルといってもほとんど密生する竹林で、竹は倒れて道に覆い被さっており、いわば竹林のトンネルを行くがごときで、後部に立っている兵士は一瞬の油断も出来ない行軍であった。険しい山を降りると山間の谷川は清水で、車両は何十回と谷川を渡り、急な登り下りを何十回繰り返したことであろうか。途中、雨が降り出し、やがて豪雨となり、悪路は勢いよく泥水が流れる川と化した。

 

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竹林のトンネルを喘ぎながら進む



 

車、川を渡る.JPG
川も渡る



兵士は濡れ鼠となって懸命に道を開き、漆黒の闇の中に車のライトが光り、車輪は空転してエンジン音だけがむなしく闇をわたる。悪戦苦闘の結果目的地には到着できず、途中、教育大臣がおられる学校施設での宿泊となった。到着は22時30分であった。

現地の地図で確認すると、タイのサンカブリを出発して11時間のドライブ距離はたったの70kmであった。如何に難行苦行の行軍であったか、読者にも若干はご理解いただけたと思う。

木造の強制収容所のような部屋で、日本財団の森祐次と二人、顔に虫よけスプレーをかけて持参の寝袋に納まったのは午前0時過ぎであった。
(つづく)

http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3849

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「ミャンマー少数民族武装勢」
―新モン州党訪問―その1


このシリーズを書くにあたり読者に予めご了承願いたいことは、まず11少数民族武装勢力と私との間で、如何に短期間に信頼醸成を構築するかが最大のテーマであり、私を信頼して少数民族武装地域へ入ることを特別に許可してくれた面談者の名前、会談内容、地域の状況、武装状況等は割愛せざるを得ない事情をご理解いただきたい。又、暗殺の可能性も皆無とは言えず、行程の詳細な事前発表も慎むようにとの助言を頂いている。

読者もご高承の通り、10月18日、日本財団会議室において「ミャンマー少数民族武装勢力支援会議」が10勢力の参加のもとに世界で初めて開催された。人道的見地から緊急支援物資(主に米と医薬品)の配布方法の検討を行い、各少数民族からの現況報告もあって成功裡に終了したことは、世界の主要メディアにより発信された。

義理・人情は日本人だけの特権ではなく、世界共通である。かつて、カーター元アメリカ大統領は、我々が彼の父母の墓参りをした返礼に、超多忙の中、大阪まで私の先祖の墓参りに一泊の日程で飛来してくれたことがあった。

私は来日の御礼をかねて彼等の居住地を順次訪問することを約束した。まず11月22日、バンコク経由、サンカブリから新モン州党の支配地域であるモン州に最高幹部を訪ねた。

成田からバンコクまで約6時間の飛行時間。そこからサンカブリまでは、タイの整備された道路でも夜中の0時30分の到着と、途中での夕食時間を除いても7時間30分の移動となった。翌23日は朝7時出発のため、早々に粗末な木造の宿舎で眠りについた。

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タイ・ミャンマーの国境(左側がタイ)

 

護衛のモン族軍の兵士と共に.JPG

  護衛のモン族軍の兵士と共に

11月23日7時15分、新モン州党のタイ側秘密アジトで簡単な朝食をとり、新モン州党幹事長宅での表敬をすませ、当方一行6名と幹事長や護衛と共に5台のトヨタ製ピックアップ車に分乗して出発となった。

 

護衛のモン族軍の兵士と共に2.JPGのサムネール画像

 

 

 

http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3848

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当財団の会長の笹川が今年6月、少数民族福祉向上大使に任命され、精力的にミャンマーの少数民族との関係構築を進めています。TOOTHFAIRYニュースでもその模様を連載していきますので、楽しみにしてください。―テイン・セイン大統領とアウンサン・スーチー女史―.JPG

「ミャンマー少数民族武装勢力」
―テイン・セイン大統領とアウンサン・スーチー女史―

ミャンマーの民主化の動向が世界の注目を浴びるようになってから約2年間が経過した。先般のオバマ大統領の約7時間の訪問はそのハイライトであった。

これはテイン・セイン大統領の卓越した指導力によるものである。特に民主化の象徴であるアウンサン・スーチー女史の海外での活動に、国会開催中にもかかわらず大幅な自由を与えていることは見事である。大統領は「肉を切らせて骨を切る」度量の大きい人である。

スーチー女史は、たった二年前まではミャンマー軍政は腐敗しているとして人道援助すら否定していたのである。ところが今や、まるで大統領の広報担当大臣のよう。訪問先のアメリカでも積極的にミャンマーへの投資を呼びかけるまでに変身した。

大統領が如何に度量としたたかな計算があるかは次の事象を見ればよくわかる。

スーチー女史はタイ国訪問やアメリカ訪問で大歓迎を受けた。直後の大統領のタイ訪問やほぼ同時の国連出席は、メディアの扱いで大きく差をつけられることは予想されたことで、大統領としての面子(めんつ)を考えると、大統領の取りまきは強く反対したであろうが、予定通り訪問された。一時的とはいえ、一国の大統領の存在がスーチー女史より影の薄い存在になるのを承知での決断は簡単ではなかったはずだ。

オバマ大統領のヤンゴン滞在はわずか約7時間だったが、スーチー女史宅を訪問。共同記者会見は大きく世界に報道された。本来ならば首都ネピドーを訪問し、テイン・セイン大統領と会談するのが外交儀礼であるが、テイン・セイン大統領はわざわざヤンゴンまで出かけてオバマ大統領と会談した。地位や名誉にこだわらず、大統領としての立場よりミャンマーの民主化を世界に理解してもらおうとするテイン・セイン大統領のひたむきに公に奉仕する姿は、やがてミャンマー国民が誇りに思い、名大統領として大幅な信頼を勝ち得る日がくるに相違ない。

スーチー女史はNLDの党首として、いまだミャンマーの将来についての明確な政策すら発表していない。イスラム教徒のロヒンギャ問題については、フランスでの記者会見で「そのような問題は存在しない」との発言で記者団に失望を与えたことは記憶に新しい。その後、ロヒンギャ問題には固く口を閉ざしている状態が続いている。

一方、テイン・セイン大統領は、国連のバン・キ・ムン事務総長にロヒンギャに市民権を与えるとの書簡を送り、西欧のみならずイスラム諸国家からも高い評価を得た。今や、スーチー女史への改革の夢を託したミャンマー国民は失望に変わりつつあるのではなかろうか。政治家としては、「肉を切らせて骨を切る」テイン・セイン大統領の方が、スーチー女史よりはるかに上手であったといわざるを得ない。スーチー女史は民主化の象徴として歴史に名を留めることで満足するのであろうか。

テイン・セイン大統領にとって最大の難関は2015年の国政選挙に勝利することである。そのためには、なんとしても少数民族武装勢力との停戦、和平が必要条件となってくる。しかし交渉は決して順調ではない。政府と少数民族武装勢力との60年に及ぶ戦いの中で、武装勢力に染みついた極度の被害者意識は、そう簡単には消えないからである。

今年6月、少数民族福祉向上大使となった筆者にとって最大の関心事は、少数民族武装勢力との信頼醸成のための努力である。豪雨の中、たった70キロの道程を悪戦苦闘で11時間以上かけ、そのうちの一つ「新モン州党」の最高責任者を訪問。ジャングルの中で会談し、一昨日帰国した。

今後も少数民族武装勢力との接触を重ね信頼醸成に努め、ブログを通して、機密漏洩にならない範囲でお伝えして参りたい。
(つづく)


http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3844

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